枯れた大地に
- 悠冴紀
- 2016年2月16日
- 読了時間: 3分
そこには楽園があった 知られざる楽園が 風にさざめく黄金色の森 世界を包む銀色の空 虫たちのささやかなコンサート すべては太陽のもとに── そこには楽園があった 知られざる楽園が そこですべては帰っていく ガラスの瞳は野生に帰り 発する音は大気に溶け そしてすべてが原点に── **************

※正確な制作年は思い出せませんが、中学生時代に作った懐かし~い作品です。 一見すると、幻想世界を描写したものと思われがちなのですが、題名の通り、枯れ草が奔放に茂る荒れ地を、観点を変えて描写した作品です。 当時私は、愛犬を連れて近所を散歩中だったのですが、ふと屈み込んで愛犬と同じ目線で周りを見回したとき、見飽きていたはずの日常のありふれた光景が、全く違った様相を帯びて見えることに気が付きました。乾ききった薄茶色の枯れ草の茂みは、陽の光を受けて黄金色に輝き、突き抜けるような高い空に薄っすらとかかった雲は、同じ光を受けて空を鏡のような白んだ銀色に演出していました。そしていつもは気にもかけていなかった足元の虫たちの合唱が、音楽的な調べに聞こえてきた。 目や耳が慣れてしまい、何の魅力も感じなくなってしまっていた日常的な事柄でも、少し工夫をして視点を変えるだけで、こんなにも豊かで真新しいものに見えてくる。そんな『見出す目』を持つことの価値に気付いたときに書いた、覚書きのような作品なのです。 この情報過多な現代社会では、与えられる娯楽や受け売りの知識に慣れてしまい、刺激や楽しみをついつい外界に求めてしまいがちですが、ふと立ち止まって、自分の日常風景の中に前々から存在していたものに目を向け直せば、意外な発見に突き当たって惚れ直すかもしれませんよ(^_-)-☆ 知り尽くしているつもりでも、物事は多角的にして動きやまないもの。探し求めている真の幸福や楽しみは、意外とずっと以前から自分の身近にあるのかもしれません。そして私たち人間が遠くに向けて旅をしたがるのは、異国の旅先にそれがあるからではなく、本当は元あるものの真価を発見・再実感して、ありがたみを理解するためなのかもしれない。 それが家族なのか友人なのか故郷の美しさなのか、はたまた過去に携わっていた事柄や、昔からずっと続けている行為そのものなのか、あるいは自分自身の内側にある忘れかけていた何かなのか・・・・・・、対象は人それぞれだと思いますが。 こうして突き詰めていくと、T.S.エリオットの 『Little Gidding』の一節と大いに重なるところがありますね。「好きな言葉」の項目にUPしていますが、「我々は探究をやめない。 そしてすべての探究を終えたとき、もとの出発点に到着し、その場所を初めて知る」という、あのくだりです。 注)私の文章を一部でも引用・転載する場合は、必ず『悠冴紀著』と明記してください。 自分の言葉であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たりますm(_ _)m