極端すぎた改革 反乱の渦 人々はある日突然戦士になる 求める神の食い違い バラバラに砕け散った世界 脱落していく同志たち 我が手が殺めた敵兵たち 巻き添えを食らった民たち 辺り一面 死ばかり 戦火を浴びて破壊を繰り返し 戦う目的さえ忘れて血に飢える 身が削れる 精神が削れる 世界が削れる やがて戦乱は去り 空虚だけが残る 戦士は気付く もはや自分の居場所がないことに 握り締める武器だけが友だった孤独な戦士 戦うことだけが人生だった勇ましくも儚い戦士 彼等は気付く 戦乱の終わりは自らの終わりだと 血の染みた大地に力無く武器を落とし ボロボロの身体で呆然と立ち尽くし そこには一体何があるのか 滅びた都市 乾いた平原 死の丘 求めたはずの神はいないことに気付く そこには一体 何があるのか・・・・・・ 戦乱の終結 抜け殻の戦士 惨めな結論 努めたすべてが空回りだったと気付く 求めたすべてが幻だったと気付く 尽くしたすべてに裏切られていたと気付く 憎んだ戦乱が自分の人生そのものだったと―― 戦士は呆然と立ち尽くす 回ることをやめた地球の上で 居場所も収穫も目的もなく ただ独り 呆然と・・・・・・ 過程と信じた戦乱に食われ 望んだ平和に馴染めなくなった 惨めな 哀れな 戦士の骸 長い間の虚脱の後 滅びの時代を地層の下に 私は零の部屋から歩み出す 二度とは歴史を繰り返さぬよう 血混じりの涙の味を忘れぬまま 私は凛と 歩いていく 武器を持たず 幻を追わず 自然のままに 歩いていく 哀れな戦士の骸だけを ただ強く強く 抱きしめて――
※この詩は、大学時代(1999年頃)の作品です。 実現不可能な理想論やユートピアに囚われて戦い抜いた果てに、虚無的な結論に辿り着き、その上、気付けば自分がすっかり怪物化していて、戦いの最終目標だったはずの平和に馴染むことすらできない存在になり果ててしまっていた、という戦場の兵士たちの末路に、自分自身の生き様を重ね見て表現したものです。 従って『戦士の骸』というのは、かつての私や、それに似た闘いの人生を送ってきた人たちの成れの果ての姿、つまり自分自身の救い難い実態に気づいて、いつの間にか本末転倒してしまっていた人生への幻滅により、存在意義を失くして死んでしまった魂(の一部)を意味しています。 この詩を書く前だったか後だったかは思い出せませんが、私が一番尊敬していた社会学の教授の講義で、「さまよえるヒーローたち」というBBC制作のドキュメンタリー番組を見せてもらったことがあります。戦場から帰る頃にはまるで別人と化していて、自分たち自身の、もはや平和の民とは共存していけない『怪物』な実態を自覚しているため、人里離れた森の奥に身を潜めて暮らすようになったベトナム帰還兵たちの話です。本物の戦場を見てきた言葉通りの『戦士』たちと、比喩表現の範囲内で自分を『戦士』と呼んできた私のような人間とでは、経験値において当然大きな違いがあるけれど、それにもかかわらず、あまりにも共感しどころが満載で、彼らの話を聞けば聞くほどに自分の思っていることそのものピタリだと気づかされて、ぎょっとしたのを覚えています。 特に、ある一人の帰還兵の言ったこの言葉、「社会の人々が怖いんじゃない。自分が彼らに何をしでかすかが怖いんだ」という一言が、印象的でした。 私の場合も、全く同じ。自分自身のため以上に、世のため人のためにこそ、公害そのものと化してしまった怪物的な側面を、自らの手で葬るしかなかったのです。闘いの無為を悟り、鋭すぎる武器を必要とされない平和的な状況に身を移したからには、自分自身の中の使用済みの『戦士』を――。 ですが、その後訪れた創作人生や、数多の教訓を踏まえた今現在の価値観といったものが、そんな闘いの月日を経てこそ築き上げられたものであるという事実も、無視できない。一連の背景事情を知らない多くの人たちからは、忌み嫌われ怖れられるだけの存在だったからこそ、せめて自分だけは、ただ「臭いものに蓋をする」などという形で葬るのではなく、過去の自分やそれに似た戦士たちの壮絶な軌跡、血なまぐさい記憶の数々を、あえて一生胸の内に携えていこう。忘れるものか。 ・・・・・・そんな思いから出てきたのが、「戦士の骸を抱きしめて・・・」というフレーズだったのです。 ※ちなみにこの作中の『神』とは、必ずしも宗教上の神を意味するのではなく、拠り所に飢えた人間が傾倒しがちな“絶対的だと信じているもの”全般を意味しています。
注)この作品を一部でも引用・転載する場合は、
必ず「詩『戦士の骸』(悠冴紀作)より」と明記してください。
自分の作品であるかのように公開するのは、著作権の侵害に当たりますm(_ _)m
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